2022年2月5日土曜日

米ソ核戦争を食い止めた「裏切り者」

  これまで3回にわたってKGB職員のノンフィクションを紹介してきた(1回目2回目3回目)。

 初めのうちは主人公がいかにソ連の圧政に辟易し、MI6に協力するようになったのかが語られる。だが1980年代前半に東西緊張が高まると、彼はソ連上層部の考えを西側に伝えるようになり、またイギリス側には英ソ首脳会談に備えてソ連体制やロシア文化について教示する。これは本来ソ連やイギリスの外務省の仕事だろう。

 当時のアンドロポフKGB長官はアメリカの軍事力をメチャクチャ怖がり、いつ核のボタンを押されてもおかしくないと考えていた。このため、西側諸国のあらゆる動きを詳細に追い、核戦争の前兆をとらえて本部に報告するよう全世界のKGB拠点に指示した。

 例えば、主要官庁の建物で夜間に灯っている照明の数を数えろ、と。攻撃の準備のため職員が残業しているかもしれないからだ。官庁の駐車場にとまっている車両の数も数えて報告しろ。防衛省の駐車場に突如として多くの車があれば、それも攻撃の準備会議のためかもしれない。さらには屠殺場も注視の対象となった。食肉加工場で殺される牛の頭数が急増したら、西側がハルマゲドンに備えてハンバーガーを備蓄している可能性があるからだ。

 西側駐在のKGB職員たちはバカバカしいと感じながらも、命令にしたがった。KGB本部ではこうして膨大な情報をかき集め、西側が攻撃に動いていると判断すれば、自らの防衛のために先制攻撃をしかける予定だった。

 アンドロポフが書記長に昇格すると、この情報収集への指示はさらに強まった。

 本書によればレーガン大統領、サッチャー首相など西側首脳は本気で核戦争を起こそうなどと全く考えていなかった。ソ連が核戦争の可能性を信じ、偏執狂のレベルで全く関係のない情報まで必死で集めていたとは、思いもよらなかった。

 主人公がKGB本部の極秘指示書をMI6に渡したことで、初めてサッチャー首相も事の次第を知った。全く関係ない事実をソ連側が曲解して先制攻撃をしてくるのを防ぐため、彼女はKGBの動きを米側に知らせた。レーガン大統領はソ連が米国の軍事力と核戦争の可能性について、これほど危機的に感じているとは驚きだったという。

 当時のCIAはソ連に職員を配置してはいたが、調査対象はソ連の軍事力にとどまり、ソ連首脳の考えについては無知だった。著者によれば、CIAは画像データなど情報機器を使用した調査を得意としていたが、MI6のように相手国の人間にアプローチして上層部の本音を聞き出すまでのヒューマンスキルは持ち合わせていなかった。

 1984年にアンドロポフが死去したことで、偏執狂的な情報収集の指示は弱まった。サッチャー首相は同氏の葬儀に参列し、この機会を利用してアンドロポフの後継者・チェルネンコと40分にわたり会談。「これが軍縮の最後のチャンスだ」と語った。当日の服装や言葉遣いについて主人公の助言にしたがい、ロシア受けする雰囲気を出せたことで英ソ関係の改善につながった。

 つまり冷戦終結のきっかけを作ったのは、主人公による命がけの本国への「裏切り」だったというわけだ。

 しかしながら核戦争などソ連も望んでおらず、結果的にはソ連にとっても危機を回避できた。

 本書によれば、海外拠点のKGB職員は少なからず経費をごまかして遊んでいたり、定年までの時間つぶしで最低限の仕事しかせず、働いているふりをするため適当にありもしない内容の報告書を書く者も結構いた。このため西側諸国の現状が正確にKGB本部に伝わらず、本国の誤算につながったとも言える。

 サッチャー首相のソ連でのふるまい方については、在ソ連・英国大使館がソ連体制やロシア文化について研究し、本国に伝えて助言すべき内容だろう。

 つまりソ連の諜報機関やイギリスの外務省が本来の仕事をさぼっていたために東西冷戦が悪化したが、主人公のオレグ・ゴルディエフスキー氏がソ連の本音を西側に伝え、また英側にソ連首脳とつきあうコツを伝授したことで、すんでのところで核戦争が回避された。