坂東玉三郎丈と言えば、歌舞伎界の女形スターとして私の記憶は始まっている。
世襲制の歌舞伎界で、梨園の家以外の出身でありながら人間国宝にまで上り詰める。中川右介著「坂東玉三郎 歌舞伎立女形への道」は膨大な資料をもとにその軌跡を追い、歌舞伎界の内幕をあぶり出す。
本書と関連情報から、歌舞伎に関して興味深い知識を得られたのでまとめてみよう。
・歌舞伎の由来は1603年、女性芸人である出雲阿国(いずものおくに)が男装して歌い踊るかぶき踊りを京都で披露したことに始まる。
・これが人気を博したため、遊女が演じる歌舞伎を遊郭が運営するようになる。遊郭への客寄せ目的でもあり、やがて人気遊女の奪い合いになる。江戸幕府は風紀が乱れるとして、女性の歌舞伎上演を禁止した。
・このため女役は美少年たちが演じるようになる。だが男色を好む観衆の間で役者をめぐる争いが起き、幕府は歌舞伎役者を成人男性に限定。
・さらに幕府は四座(山村座、中村座、森田座、市村座)のみに歌舞伎公演を許可した。しかしながら、大奥が山村座の観劇後に人気役者との宴会で門限を破ったことで、幕府は山村座を追放して関係者を処分。幕府は全ての芝居小屋を閉鎖しようとしたが、二代目市川團十郎の尽力で残りの三座は存続する。
・ただし町人と歌舞伎役者の交際は禁止され、やがて全ての芝居小屋が当時は不便だった浅草への引越を命じられる。結果としては、かつてバラバラの場所にあった劇場が一カ所に集中することで、かえって賑わいを見せるようになった。八代目市川團十郎は男前だったこともあり、女性に大人気で観客動員に大きく貢献した。
・このような歴史から、市川團十郎が歌舞伎界で最も権威がある。歌舞伎十八番は市川家のお家芸で、そのうち最も有名なのは勧進帳。
・勧進帳は能をもとにした古典で、コロナ禍で公演中止だった昨年も、十五代目片岡仁左衛門は発声練習のため弁慶、富樫、義経の三役を全て一人で演じる稽古をしていた。
・男子のみ歌舞伎役者を継承できる規則のもと、戦後の関西歌舞伎の家々では男の子に恵まれなかったため衰退。唯一残された片岡家は東京に移ったが、当時の歌舞伎界では隅に追いやられた。
・明治時代から歌舞伎はほぼ松竹の独占経営となり、松竹の運営する劇場のうち歌舞伎座が中心的な存在。1966年11月に国立劇場が発足したが、民業圧迫を避けて差別化を図るため、松竹では行わない古典の通し上演、復活上演、新作発表を行う。
・国立劇場幹部は文化庁の天下りで歌舞伎興行のプロではない。だが国立劇場が発足した当時の歌舞伎界は六代目中村歌右衛門や長老に牛耳られ、実力がありながら歌舞伎座の舞台を踏む機会に恵まれなかった役者にはチャンスだった。
・玉三郎は大塚の料亭に生まれ、小児麻痺のリハビリで始めた日本舞踊に打ち込むようになる。江戸時代の森田座に由来する守田家の弟子になり、14歳で守田勘彌の養子として迎えられ、勘彌がかつて名乗った坂東玉三郎を襲名する。
・勘彌は国立劇場の関係者に働きかけて玉三郎を売り出し、相手役として片岡孝夫(現在の十五代目片岡仁左衛門)のペアを実現させる。この人間国宝コンビは現在に至るまでチケット即完売の人気を誇る。
・三島由紀夫と篠山紀信は玉三郎の美しさに衝撃を受ける。三島による激賞と篠山の撮影する玉三郎写真集によって、玉三郎は一躍有名になる。1970年代以降は松竹も玉三郎を売り出すが、長老の支配する歌舞伎界で活躍の場は限られた。
・当時の六代目市川染五郎(当代松本白鴎)も似た状況で、このため二人とも歌舞伎以外の舞台に活路を見出した。玉三郎は新劇、翻訳物、バレエ、映画、演出などを手がける。
・玉三郎は養父勘彌から非常に厳しい稽古を受けた。この年代の方が「非常に厳しい」と言うと、かなりのパワハラを想像してしまう。彼は最近のインタビューで「もう生まれ変わりたくない」と語っている。