ここ最近、幸せとは何かについてつらつらと考えながら、ネット検索や読書、少額の研修プログラムなどをやってみた。
究極的に言えば、ベルサイユ宮殿で贅沢を極めた女性でも幸せだったようには思えず、職場や家族が円満でも刺激が足りないかもしれない。〇〇があれば幸せだといった、幸せの条件というものはないような気もする。
〇〇という条件や目標を達成した後には、次の△△が出てきたリする。世間の目を気にすれば、いい学校を卒業したら当然いい仕事に就き、その次は素敵な結婚、賢い子供、瀟洒な家やインテリア、カッコいいマイカー。。。それらを全て揃えたら、それらを維持するためにクタクタになるまで働く。もしくは有閑マダムでも、社会から取り残された気持ちになるといった話も聞く。
要するに外的な条件がいくら揃ったところで果てしがなく、ひとつの目標を達成したら達成感はあるものの、永遠に続くわけではない。
結局のところ、幸せというのは心の中にしかなく、自分が幸せだと感じるかどうか、そこに尽きる。あるブロガーがこう言っていた。「思いっきり幸せの条件を下げてしまえばいい。だが子供の頃から〇〇をしないといけない、××を達成しなければ幸せになれないと言われて多くの人は育っているので、そんなことはできない。だがやってしまった者勝ちなのだ」
自分の4~5歳の頃を振り返ってみた。チーズが好きでチーズさえ食べれば幸せで、「チーズの国」という絵本を自分のために書いた。宇宙に興味があり、「どうぶつのうちゅうたんけん」というストーリーを作り、紙芝居に仕上げて妄想を楽しんだ。あるいは新聞に入ってくるチラシのいろいろな店の地図の部分を切り取って集め、 これをずっと続けていれば最終的にはどこにでも行けると信じていた。
ベビースターラーメンでもたまに食べられれば、もう120%幸せ一杯だったのだ。
今だったらベビースターラーメンはもちろん、たいていの食べ物はなんでも買える。なんだったら、懐かしい漫画の大人買いだってできる。
完璧主義というのも幸せを感じるには障害となる。もちろん完璧でなければいけない場面は仕事を中心に多くある。就職活動のカバーレター、上司に提出するレポート、出版する記事に事実関係、固有名詞、文法やスペルのミスがあってはいけない。
だが、例えば「アジアの〇〇市場調査」といったプロジェクトを完璧にやろうとした場合、その心意気はいいのだが、こういった仕事に完璧な状態というのはあるだろうか。あったとしても、各個人の妄想や思い込み、恣意的な判断基準の結果でしかない。もちろん、ほぼ誰の目にも明らかな、ここは当然押さえておくべきポイントというのはあるが、最終的には自己満足の世界なのだ。
安倍さんの「働き方改革」「女性が輝く社会」「アベノミクス」といったプロジェクトだって、結局はそういうことだろう。
であれば、個人の人生の「完璧さ」など幻想に過ぎず、他人に迷惑をかけたり不法行為に及んだりしない限り、要するに何だって構わないのだ。
「完璧主義は効率が悪い」と説くブロガーもいて、なるほどと思った。80点取るのは簡単だが、それを100点まで持っていくのはものすごいエネルギーが要る。100点のプロジェクトを一つやるよりも、80点のものをいくつもやったほうが総合点数が高くなる、と。
日本という国は100点でないと許されないことが多い。だからこそサービスの質も高く、ほとんどの物事がスムーズに行く。だが日本を一歩出てみれば、お風呂のお湯も出てこないし、予約したはずのホテルに部屋がないと言われたりするが、こうした国のほうが一人当たりのGDPは日本よりはるかに稼いでいたりする。世間的に80点や60点までもが許容され、そうしたプロジェクトが次々と出てくる、といったことなのだろうか。
また、完璧主義は99点だったら1点取れなかったことに拘泥し、99点を受け入れられない。もっと言えば、100点を取ったとしても「勝って兜の緒を締めよ」と親に言われて育つと、いつの間にか自らそうした発想を持つようになり、生涯にわたりこれでいいということにならない。これではいつまで経っても幸せにはほど遠い。
中年になれば体力も落ち、記憶力のピークはとうに過ぎ、老眼で細かい数字を見分けるのが難しくなり、物理的に完璧主義は立ち行かなくなる。それで自分を責めるとますます幸せから遠ざかる。
雨風をしのぐ家があり、健康で仕事があれば、あとはどうでも好きにやれば幸せになれるのではないだろうか。