"Putin's Playbook: Russia's Secret Plan to Defeat America"の著者Rebekah Koffler氏はソ連時代のカザフスタン出身。モスクワ国立教育大学を卒業後、自由の国・アメリカに憧れて移住した。
母国語のロシア語とロシアに関する専門知識を生かし、米国の諜報機関で働いた経験をもとにプーチンの米国戦略を詳述している。
だが最も興味深い部分は、彼女自身の米政府内でのキャリアの軌跡である。
著者は2001年の同時テロにショックを受け、新たな母国である米国を守りたいという熱意を持つ。同時テロ関連の会議で講演したFBI捜査官に話しかけ、米国内の外国人犯罪に関する仕事を希望する。そしてオファーをもらうものの、身元調査の結果、父親がカザフスタン在住で米国の機密情報が洩れる恐れがあるという理由で採用は却下される。
それでも新天地・米国のために働きたいという意欲は冷めることはなく、中央情報局(CIA)と国防総省の諜報機関である国防情報局(DIA)にも応募してオファーを得る。
だがここでも、身元調査で問題となる。米国の諜報機関は、海外在住歴の長い人材を避ける傾向にあるという。外国の影響を強く受けていること、また外国語を流暢に使えることで外国の諜報機関の二重スパイになる可能性があるからだ。
特に採用担当の管理職は、もし自分の採用した職員が二重スパイになった日には自分の立場が危うくなるため、組織が本来必要としている真のエキスパートをあえて採用したがらない。
こうした背景のもと、著者は2001年にCIAとDIAからオファーを受けたまま、身元調査の段階で7年間もの長きに亘り宙ぶらりんの状態に置かれた。長年のCIA職員である知人に相談したところ、CIAとDIAの各長官に直接手紙を書くことを勧められた。トップの命令であれば中間管理職を動かせるだろう、と。
結果として著者は晴れてDIAから正式に採用される。ソ連時代の警察国家で抑圧され、物資の不足した環境で育った彼女にとって、物質的に豊かで自由な米国がありがたく、恩返しをしようと人一倍まじめに働いた。
米政府高官から名指しでブリーフィングを求められることも多く、またNATO会合に呼ばれて講演を行い、DIAの評判を高めた。
トップレベルの高官には感謝されたものの、直属の上司は彼女の活躍ぶりを気に入らなかった。ある日、上司のオフィスに呼ばれてこう言われる。「君はまじめに働きすぎる。それは困る。ほかの部下たちに高評価を出せないじゃないか」
上司の言い分は全く理解できず、著者は米政府の各官庁に置かれている苦情処理機関のOffice of Inspector General (OIG)と雇用平等担当に相談する。だが理不尽さを解決するはずの、こうした機関も上司の肩を持つだけで頼りにならない。
そうこうするうち、NATOから再度講演の依頼が来たものの、DIAは著者ではなく別の男性同僚を演者に選ぶ。あれほどDIAへの評判に貢献したのに、外されるとはどういうわけなのか。
NATOでの講演を取りまとめるチームリーダーの男性職員は陰鬱な表情でこう説明した。「あなたと私が親密な関係にあるとして、えこひいきで私があなたを演者に選んだと訴えた職員がいる。だから今回はあなたをブリュッセルに連れて行けない。別の男性職員に講演をしてもらうので、彼が講演内容をまとめるのを手伝ってほしい」
チームリーダーとは完全にプロフェッショナルな関係であり、やましいことは全くない。本当に悔しかったものの、リーダーの指示には従った。結果的にこの訴えは証拠不十分で却下されたものの、その先にはもっと驚く事態が待ち構えていた。
卓越した仕事内容が認められた著者は、米政府の諜報機関全体でサイバー分野のナンバーツーとしてCIAに2年間出向する昇進ポストに応募して合格する。
この素晴らしいポストに心躍り、迎えた初出勤の日。「身元調査が通らない」という理由で就任できなくなる。DIAではすでに最高機密を扱うために必要な身元調査の承認は下りており、だからこそDIAに勤務してきた。この承認はCIAにも適応されるルールになっている。なぜ身元調査がこの時点で問題になるのか?
誰に聞いても答えはわからず、著者はたらいまわしにされる。このCIAポジションは空席のまま、CIAとDIAで別の仕事をやることになる。
全く訳がわからない状況のなか、DIAから出張を命じられる。帰りの機内で著者はロシア語の軍事情報誌を読んでいた。隣席の男性に話しかけられ、彼の話す内容は支離滅裂でしまいには「飛行機から飛び降りる」と言う。客室乗務員を呼び、飛行機は緊急着陸する。
機内に乗り込んできたFBI捜査官に、どういうわけか客室乗務員は著者が問題人物だと伝える。彼女は完全に理解不能な状況のまま手錠をかけられ、FBIに連れ去られて尋問を受ける。最終的に身の潔白は通って帰宅する。
翌日に出勤した際に職場の規定に従い、事の次第を担当部局に報告する。するとウソ発見器にかけられ、担当者から質問されて答えた内容が「気が狂っている」と判定され、2015年に著者は7年間勤めたDIAを一方的に解雇される。
この不可解で理不尽な状況に不服を申し立てるが、例によってDIAのOIGは頼りにならない。米政府で働く外国出身者が不当に解雇される例は珍しくはなく、こうした事柄を専門に扱う弁護士もいる。
著者は夫と相談し、大枚をはたいて専門弁護士を雇うが、1人目は思うような結果を得られず、2人目も同様だった。3人目は女性差別に詳しく「国防総省の女性職員から毎日のように相談がある」という。だが、この弁護士に依頼するにはさらに6万ドルが必要だった。著者と夫はこれ以上戦いを続けると老後資金を失い、家庭崩壊の危機に陥ると判断して断念する。
抑圧的な警察国家・ソ連から逃げ出して自由の国に来たはずが、米政府でも似たような運命をたどることになった。著者と似たような経緯で退職した同僚もいる。さらにはオバマ政権の二期目にDIAのロシア情勢に精通した専門家の多くが、別の地域担当に異動させられた。こうした理由が著者には皆目見当がつかないという。
ウクライナ情勢が米国とロシアの代理戦争の様相を呈しているが、その一方で米軍の諜報機関であるDIAからロシア事情に精通した専門家が意図的に追い出されていた、ということのようだ。
前述したように、そもそも米国の諜報機関は海外経験の豊富な人材を雇いたがらない。現地語の能力や地域事情の理解に限界のある職員が多数派であり、相手をよく理解しないまま対立を続けている、ということになる。
さらには米国に17ある諜報機関のうち、2017年に機密解除された報告書"Assessing Russian Activities and Intentions in Recent U.S. Elections"を書いたのはCIA、FBI、国家安全保障局(NSA)の3つだけで、DIAを含む14の諜報機関は除外されて調整も行われなかった。
これとは対照的にロシアの諜報機関は米国の社会、文化やメンタリティについて詳細に調べ上げ、それをもとにSNSやサイバー攻撃を駆使して米国内の分断を深め、長期的な国力を弱めることに成功している、と著者は述べている。
私の分析
米政府に日本人職員として16年間勤めた私の経験から、この驚くべき展開を分析してみたい。
・政府機関のような大きな組織では、ヒエラルキーを超えて活躍する人材はあまり好まれない。直属の上司よりも優秀だと周囲に思われると、上司としては気に入らず、扱いづらい部下になる。
・このため上司自身が優秀で器が大きく、部下を育てる姿勢がないと、いくら頑張っても報われず、むしろマイナスになる。大御所で有名な組織のほうが、こうした人材がいる確率は高い。
・私自身の経験で言えば、大学の成績が悪すぎて退学させられた経験を持つ上司のいる官庁もあった。彼は締切りを守らず、何度もリマインダーが必要であり、「やる」と約束したことをやらない。これに対して、例えば国務省は有名大学出身のお坊ちゃまが主流で、ここまでレベルの低い職員には会わなかった。本書から判断するに、どうやらDIAはあまり優秀な人材が多くはないのだろう。
・OIGや雇用平等担当がきちんと機能しているかは、組織自体のモラルによる。意識の低い人材が多数派の組織では理不尽さがまかり通るが、国務省では人権意識や理想の高い職員が結構いるので、かなり機能している。
・アメリカ人は見た目、周囲にどう思われるかを非常に気にする傾向がある。儒教国家かと思うほど、上司を立ててよく見せてあげるのがポイント。
・どの官庁だろうが、ええっと言うようなレベルの低い上司にぶち当たることはある。そうなったら最後、覚悟を決めて上司が異動になるまで耐えるしかない。この本の著者の上司は「そんなに真面目に働くな」と言うわけだから、ユルユルにやればよかった。
・著者はそれをしなかったので上司に嫌われた。このため米政府全体としてロシア専門家を減らす動きがあった時にターゲットにされ、追い出されたのだろう。
・本書は著者の職場経験の部分はかなり興味深いが、その他の箇所は文献からの引用がやたらと多くて読みづらい。英語の語彙は豊富だが、文章の流れがよくない。モスクワ国立教育大学はどうやらトップ校というわけではない。これに対して、有名校のエッセー考査や試験を通り、米政府で報告書や公電を多数書いた経験のあるアメリカ人は文章力が高い。
・著者は自分がいかに優秀で政府高官から重用されたかを強調している。今まで職場にいなかったロシア語ネイティブであり、ロシア事情に精通しているため、新たな情報がDIAにもたらされたからだろう。しかしながら、英文レポートの作成能力は、英語圏の有名大学やOJTで訓練を積んだ職員よりは劣っていたのではないだろうか。
・とは言いながら、文章力の高くない職員はほかにもいるだろう。外国出身で米国では小柄(158センチ)の女性は、それだけで、背の高い白人男性の社会でバカにされ、不利な立場に陥りやすいのは事実。競争の激しい職場ではなおさら。
・このため差別撤廃の手段として、クオーター制は意味がある。そうでもしないと、いつのまにか白人男性のジャイアンタイプ、もしくは特別のコネがあるお坊ちゃまの世界が続くことになる。