2026年3月25日水曜日

映画レビュー「ブーニン 天才ピアニストの沈黙と再生」

 標記ドキュメンタリー映画を鑑賞、平日の割引デーで周囲はほとんど有閑マダムのような女性ばかりだった。

 ブーニンはソ連出身でショパンコンクール優勝の有名ピアニストと知っていたが、そう言えば最近はあまり表舞台に出ていなかった。

 じつは長年の演奏活動による肩への負担で2013年に左手が麻痺、さらには糖尿病のため左足を切断するという苦難に見舞われていた。左足を軸にしてバランスを取る弾き方だったのが、それもできなくなっていた。

 だが日本人である妻に励まされ、復活に向けて動き出す。かつては腕を高く振り上げて鍵盤にたたきつけるマッチョな弾き方だったが、シューマンの静かな曲をレパートリーに変え、2022年に長野のホールで復帰リサイタルを開催する。

 それと同時にもう世界各地を旅行しながら、次々と新しい会場でコンサートをやるのは厳しいとも感じていた。自分のためだけの演奏と録音というスタイルにしようかとも考えつつ、やりながらやれることを模索した。

 2025年12月に行われたサントリーホールのリサイタルではショパンの「別れの曲」を予定していたが、当日どうしても自分で思うように指が動かなかったので別の曲に変えた。2026年1月の東京芸術劇場では、小規模ながら復帰後初めてオーケストラとの共演でバッハを演奏した。

 ブーニンの祖父は有名ピアニストで母のピアノ練習を聞きながら育ったものの、彼自身は手が小さかった。子供の頃は練習が嫌いだったが、14~15歳でコツをつかみ、これでピアニストとしてやっていけると思った。

 ソ連は国内でショパンコンクール出場者を厳選し、ソ連からは彼だけが出て19歳で優勝した。当時はモスクワ音楽院に在学、国営オーケストラのソリストも務めた。だが20歳の時、音楽院から「コンサートをやめてソ連共産主義の勉強をしろ」と言われた。このあたりはメルケル元独首相が東独での学生時代、専攻に関係なくマルクス・レーニン主義の授業が最も重要とされていた、と回顧録で語っていたのを思い出す。

 すでに多くのことを成し遂げてはいても、20歳という年齢はまだまだ学ぶべき段階であり、コンサートをやめることはありえないと彼は考えた。そこでモスクワ音楽院に退学届を出し、1988年に西ドイツに亡命した。

 59歳の現在、自分の人生をブーニンはこう振り返る。「私の強みは望んだことを全て手に入れてきたこと。弱みは『そこまでしなくていい』と周囲に言われてもやってしまうこと。ただそうした弱味を含めて人間だと思っている」

 音楽や芸術、クリエイティブな活動をする人が限界に直面したとき、どのように考え、対処すべきかというヒントがちりばめられ、そういった意味でいい映画だった。

 その一方でさすがNHKの共同制作と言うべきか、やや極端な西側プロパガンダ臭も漂っている。

 全編を通じてブーニンは亡命先の言語であるドイツ語と若干の日本語を話し、ロシア語は一切話さない。もちろんソ連やモスクワ音楽院のやり方に閉口したからこそ亡命したにせよ、それでも母国を懐かしく思い出すことも時にはあるのではないだろうか。だがそうしたコメントは一切なく、インタビュアーはそういった質問すらしない。さらには、この映画は約2時間のうちコンサートの演奏場面が3分の2程度を占めるが、ラフマニノフなどロシアの作曲家の作品は一曲も登場しない。

 つまり、この映画は有名ピアニストの苦闘と復活という感動話であると同時に、ロシア人であるブーニンを通じてロシアを全面否定しているようにも見える。あくまで想像なのだが、泥沼化したウクライナへの日本の継続支援を促すといったサブリミナル効果を狙ったプロパガンダ映画なのかもしれない。

 さらには「天才を支える日本人妻の内助の功」が随所に織り交ぜられ、儒教的な価値観を強調している。これは保守的な女性(それこそ平日昼間の映画館にいる層)に最も刺さる「美談のテンプレート」でもある。