2024年4月12日金曜日

ベートーベン博物館 in ウィーン郊外ハイリゲンシュタット

  ウィーン中央駅からトラムD線で約40分、Halteraugasseで下車。ハイリゲンシュタットはベートーベン病気療養で滞在した地であり、彼が住んでいたアパートが博物館となっている。

 オーストリアの法律にもとづき、Wien Museumという公的組織が運営、ほかにハイドンハウス(ブラームスのウィーンでの住居や所持品に関する展示室を含む)、シューベルト、シュトラウスなどの博物館の運営も行っている。

 これが最寄駅の標識だが、どれが駅名だろうか?


 最上部のいちばん小さい文字が駅名なのだ。どうしてこんなにわかりづらいのか。。😅


 ウィーンに1週間滞在した印象だが、あちこちで「えっ」と思うような合理的とは言えないシステムが残っている。

 例えば、楽友協会の英語ツアーのチケット。ウエブサイトでオンライン予約はできるのだが、確認メール(+PDFファイル)では入場できない。受付に行って紙のチケットを発行してもらう必要がある。


 シュトラウスが指揮を執ったクアサロンのコンサートも同じようにオンライン予約でき、QRコードまでメール送付されるにもかかわらず、やはり受付で紙のチケットを発行してもらわなければならない。
 
 日本のプロ野球ではQRコードをスマホでかざして「ピッ」とやれば入れるのとは対照的である。

 ほかの大都市では見られない旧態依然とした習慣から、ウィーンという街の保守性を感じる。

 ベートーベンは当時の保守勢力でパトロンとなった支配階級の支援を受けながらも、彼らと闘う。その一方で恋愛相手の女性はほぼ全て貴族で「ブルョア庶民」の自分とはかなわない関係だった。アル中の父親から家計を頼られ、出稼ぎにきたウィーンで大成功を収めるも、働きすぎや人間関係のストレス、安いワインの飲みすぎで健康を害し、自然豊かなハイリゲンシュタットで療養生活を送る。

 ベートーベン博物館はそうした激しい人生を6つのテーマ別展示室(1: ウィーン移住、2: 療養、3: 作曲、4: 収入、5: 演奏、6: 死)に分けて解説している。この建物は15世紀中頃から存在、行政官の家、パン屋などの変遷をへて、1802年夏、現在の展示室3「作曲」のアパートにベートーベンは住んでいた。

 この記事では、私が特に興味を引かれた上記1~4の展示室をご紹介しよう。

1)ウィーン移住


 ベートーベンは1770年12月16日頃にドイツ・ボンで誕生。父親は音楽家で息子の才能を見抜き非常に厳しく育て、ベートーベンはピアノの名手、オルガン奏者、バイオリン奏者となり、13歳で宮廷楽団の作曲家に任命された。

 父親はアル中で家計をベートーベンに頼るようになり、母親の死後、ベートーベンは父と弟2人の生活を支えるため出稼ぎで22歳でウィーンに移住。当時の資料から、このようなトランクを提げてきたと思われる。


2)療養


 働きすぎ、自己肯定感の低さ、生計の不安、失恋や片思い、悪化する難聴、自分に課した高い期待値によるプレッシャーによって、1801年、31歳のベートーベンは健康を害した。

 都会の喧騒を離れ、田舎の自然環境で養生するよう医者に勧められ、1802年4月23日にベートーベンはハイリゲンシュタット(小さなワイン産地・温泉地)に引っ越した。


 ベートーベンは難聴だけでなく下痢、便秘、下腹痛、熱、炎症にも悩まされていた。鉄砂糖の甘味料を含む安いワインを日常的に飲んでいたことによる鉄中毒が原因と思われる。


 治療にあたった医師の一人で外科医・眼科医のSchmidは、ベートーベンに1年のうち半年をウィーンの喧騒を離れ、田舎の自然環境で休養・リラックスして「適度」な生活を送るよう助言した。「勇敢に生き、眠り、ほとんど働かず、よい食事を摂り、節酒するように」と。ベートーベンは三重奏曲 変ホ長調 Op.38を彼に捧げた。

 ベートーベンの時代には電話はなく、離れている人との通信手段は手紙だった。彼は何千通もの手紙を書き、うち約2000通が残っている。「エリーゼのために」の相手の可能性がある女性は数人いるが、うち一人Therese von Malfatti宛の手紙では、ベートーベンがいかに田舎暮らしを喜んだのかが伝わってくる。


「そんなに早く田舎へ出発できるなんて、あなたはなんて幸運なんだ! 私はこの素晴らしい無上の喜びを堪能するのに、8日まで待たないといけないが、もう子供のように興奮している。低木や森を抜けて草、岩々の丘斜面の間を散歩すれば、すぐに私は幸せになれる。私ほど田舎が大好きな者はいない。森、木々、岩壁は人間が望む全てのものと響き合う」

 ライプツィヒの版元に宛てた手紙にはこう記している。「私は田舎にいてかなり怠慢な生活を送っている。今後もっと活動的に生きるために」


 さらにベートーベンは自分のノートにこう書いている。


「私の規則:自然の田舎に滞在すること。これを守るのは実に簡単なのだ!ここでは私は不運な難聴を患わない。なんと田舎では木々が私に語りかけるようだ。神よ、森で魔法にかかった!これをどう表現したらいいのか?」

「森の神様!私は森の中でご加護を受け、とても幸せだ。あなたを通して、木々が語りかける。おお神よ!何という美しさ!人里離れた丘の森では全てが落ち着き、平和に神に仕えている」


 こちらがベートーベンの好きだった風景。


 彼は道に迷わないよう方位磁石も持っていた。


3)作曲


 ほとんどの草稿を捨ててしまったブラームスとは対照的に、ベートーベンは膨大な量の手書きの資料を残している。数千ページに及ぶメモ書き(ノート70冊とバラバラの紙)がある。作曲した全772曲に加えて未完成の作品やアイディアを得るための草案、途中で終わっている研究も取ってある。


 ベートーベンは自律的に高い目標に向かって働いた。午前中は作曲という生産的な仕事を行い、午後は創造的な時間で散歩中に着想を得たり、アイディアを書き留めたりした。明らかにベートーベンはいつでも、どこでも作曲していた。

 ひとつの作品はしばしば非常に長いプロセスを数段階に分けて作られた。主音と形式(ソナタ、四重奏曲、交響曲など)の決定後、ハイドンやモーツァルトとは違う方法を取った。主題を発展させるのではなく、同じ調性の範囲で草稿を書き、全体の概念を見える化、あるいは彼の頭の中にある耳に聞こえるようにした。つながりや転換はその後にやってきた。

 最初に完璧に明確なアイディアがあり、その後にメロディーを調整し、ハーモニーの層を作り、楽器の色彩やダイナミックなアクセントをつけた。結果として膨大な量の楽譜の詳細が生まれ、ベートーベンの出版社は特に苦労した。


「今朝と昨日の午後中ずっと、私は2つの曲を訂正する作業しかやっていない。悪態をつき、地団太踏んだおかげで声がガラガラだ」(1825年、バイオリニストで秘書のKarl Holzに宛てた手紙)

【私の感想:ベートーベンの曲は確かに非常にはっきりしたテーマがある。例えば、ピアノソナタ「熱情」は苦しい情熱を感じる。彼自身が訴えたいことがあり、それをどう表現するかを自身で模索して曲を作る、という感じ。聴いているだけで音符がたくさんあると想像できるが、メッセージはあまりにも明確でわかりやすい。そのため、短い時期に何度も聴くと飽きてはくる。

 それに対して、ブラームスは親しい友人に草稿を見せては訂正を加えるという、同じ完璧主義でも違うスタイルで、常に他者の評価をすごく気にしていた。結果として同じ曲でも異なる解釈が可能であり、スルメのように何千回聴いても飽きない。

 どちらがいい悪いの問題ではなく、その時の状況や気分によって違う堪能の仕方ができる。】


 ベートーベンの仕事場はかなりの「汚部屋」だった。ピアノの上はホコリと楽譜が散乱し、その下には、おまるが片付けていない状態で置かれていた。ピアノの横にある小さなテーブルはインクで汚れ、ほぼ全てに椅子の上に洋服、前日の夕食の食べ残しが置いたまま。こうした訪問者の見聞録をもとに、当時のベートーベンの仕事場を描いた絵がある(上)。


 ベートーベンは自分の容姿に自信がなく、肖像画を描かれるのが大嫌いだった。「画家は私の顔を高く評価しているが、じつは大したことがない顔であり、彼のために私は座り、この苦行をやっている。致命的に恥ずかしい顔で悩ましい限りだ」といった内容の手紙を友人のNikolaus von Zmeskall宛に書いている。

ハイリゲンシュタットの遺書


 1802年10月6日付、追伸10月10日付で当時31歳のベートーベンは、弟たちへ遺言状を書いた。「ああ君たちは、私が他人の不幸を喜び、頑固、あるいは人間嫌いだと思い、そう言っているが、それは大いなる誤解だ」と書き出し、その背景として自分の病気について明かしている。

 非常に興味深い内容なので、気になった箇所の要約と私の感想を【→】の形で述べてみたい。

 この6年もの間(つまり25歳から)救いようがないほど苦しみ、ヤブ医者たちによって症状が悪化した。「難聴は自分の仕事にとって致命的だ。私には相当な数の敵がいるが、彼らが知ったら、何と言うだろうか」とも、別の資料で書いている。【→いつの時代でも患者を食い物にして儲ける悪徳医師はいるようだ。また成功者をうらやんでマウントを取り、足を引っ張る輩もいる。こうした人々に気をつけて避けるうちに、弟たちから「人間嫌い」と言われるようになったのかもしれない。】

 仲間といても寛げず、洗練された会話もなく、アイディアの交換もない。私はほとんど独りで生きなければならない。自分の症状を気づかれるのが怖い。【→ブラームスがいつでも親しい友人に批評を求めたのと対照的だと先述したが、ベートーベンは難聴を気づかれないよう、期せずして独りで作曲活動をしたのかもしれない。結果的に内省を深め、よりオリジナルな考えを追求できた、とも言える。】

 隣に立っている人には遠くのフルートの音やシェパードの鳴き声が聞こえるのに、私には何も聞こえないというのは、何という屈辱だろうか。

 こうした出来事で絶望し、もう少しで私は自殺するところだった。私の芸術だけが自分を引き止めた。ああ、私が自分の中にある全てを出し切らないうちに、この世を去ることなどできないだろうと思えた。

 私が死んだら、君たち2人が私の少しばかりの財産(もしそう呼べるなら)の相続人だ。君たちが私を傷つけたことを、君たちはわかっているが、かなり前に許したよ。【→かなり前に許したことを、わざわざ書いている(^^;) それほど傷ついたのだろう。親しい関係ほど愛憎の念は激しくなりがち。】

 自分の子供たちには美徳を勧めなさい。お金ではなく、それだけで彼らは幸せになれる。私は経験から言っている。みじめな時に、これが私を支えてくれた。美徳と私の芸術のおかげで。【→たしかに若いうちからお金を与えられ、働かずに済み、経済的に自立できていないと、根本的なレベルで常識が欠如し、おかしな方向に行く感じがする。】

4)収入


 ベートーベンは庶民として上流社会で活動したが、当時は細かい社会階級が浸透していた。支配階級は彼に作曲を依頼し、演奏し、高く評価したが、ベートーベンが超えられない一線を引いた。挫折、病気、難聴にもかかわらず、彼の支援者はベートーベンを高い地位に押し上げた。自意識の高い芸術家として、彼は常に時代の限界に挑戦した。

パトロンとの関係


 Karl von Lichnowsky王子夫妻はベートーベンにとって最も重要な支援者でありパトロンだった(ハイリゲンシュタットの遺書でも、Schmid医師とともにLichnowsky王子の名前を挙げて感謝を述べている。)ベートーベンはピアノソナタ「悲愴」など一連の曲をLichnowsky王子に捧げている。

 しかしながら、1806年にベートーベンは王子に怒りを爆発させ、この事件が二人の関係に一時的に影を落とした。「王子! あなたが現在の地位にあるのは偶然であり、出生によるものだ。私は今日の自分を自分で築いた。現在も今後も何千人もの王子がいるが、ベートーベンは一人しかいない」

 この喧嘩のあと、ベートーベンはLichnowskyの胸像を壊したと伝えられている。【→よほどムカついたことがあったのだろう。私も外資系組織で本国の幹部から、理不尽に偉そうな態度を取られて怒り爆発したことを思い出す(^^;)】


女性関係


 ベートーベンは結婚したいと何度も宣言していたが、生涯独身だった。彼が恋した女性はほぼ全て貴族で「ブルジョア庶民」の彼には手が届かなかった。「不滅の恋人」宛に3部作の手紙を書いたが、相手の名前は明かしていない。何人もの女性が可能性として考えられたが、最新の研究ではJosephine Brunsvikしかありえないと推測されている。


 Josephine Brunsvikはハンガリー出身の貴族で、ベートーベンからピアノを習っていた。階級や財産を理由に、彼女は27歳年上の別の男性と結婚したが、夫の死後、ベートーベンと彼女の仲は燃え上がった。彼女の再婚で二人の関係は突然終わった。だが夫と別居後、二人はまた会うようになった。Josephineの末娘Minonaはベートーベンとの子供だと考えられている。

ベートーベンの伝記


 ベートーベンの死後間もなく、彼の伝記が出版された。時折秘書を務めたAnton Schindlerが最初の伝記を出版したが、おそらく売名行為が目的でその内容は一方的で間違えており、虚偽や廃棄処分となった会話集から文章を取っていた。【→こんなことをする人が近くにいたら、そりゃ人間嫌いにもなるかも(^^;) 身近な人の裏切りという意味では、新庄さんもそんな感じだったのかな。】

 ベートーベンの仲間や親しい人々からも回想録が出てきた。情報源には今でも隠された資料があり、常に新たな疑問が出ている。学術的な研究によって驚くべき発見が生まれ、ベートーベンに関する長年の見解が覆されることも多い。