ベルリンから列車で1時間半。ライプツィヒは旧東ドイツの都市だが、今ではすっかり西側の雰囲気が漂い、駅周辺の観光名所はきれいに整っている。バッハが音楽監督を務めた教会があり、ライプツィヒはバッハの街としても知られる。
バッハ博物館の入場料は10ユーロだが、私が訪れた日は第一火曜で無料だった。受付の女性はなんと新潟に住んでいたそうで日本語が通じて驚いた。日本語のオーディオガイドも無料で貸してくれて、3時間も詳しく見て回ることができた。私が興味を引かれた内容を紹介しよう(←以下は感想)。
ヨハン・セバスチャン・バッハは「大バッハ」とも呼ばれ、息子たち「小バッハ」と区別される。バッハ家は音楽一族で作曲家や楽器職人が多く、少数の医者もいた。
音楽一家に生まれ、子供時代に両親が他界
ヨハン・セバスチャンは毛皮商人・町議の娘である母、Eisenach(ライプツィヒの南西160㎞)の宮廷音楽家である父のもと、1685年3月21日に生まれた。9歳で母を亡くし、10歳で父も死去、長兄の家に入る。(←バッハの音楽は強烈な悲しみ、静かな癒しを感じさせる。幼少期のこうした体験が元になっているのではないだろうか。)
1702年、Sangerhausenの聖ヤコブ教会のオルガン奏者の空席に応募。オーディションでバッハは満場一致で選ばれるも、公爵の介入で別の応募者が採用された。(←17歳の若さでこのような理不尽な目に遭った経験からなのか、バッハはその後の人生で事あるごとに、音楽界の状況改善のため上層部への申し立てを行っている。)
1702-03年、Saxe-Weimarの宮廷で下男・音楽奏者として働く。1703-07年、Arnstadtのニューチャーチのオルガン奏者。1707-08年、Mühlhausenの聖ブラジウス教会のオルガン奏者。1707年、マリア・バーバラ・バッハ(ヨハン・セバスチャンのはとこ)と結婚。(←バッハと言えばパイプオルガンの曲が印象的だが、まずはオルガン奏者としてキャリアを積み、オルガン奏者=一家の主として安定した職ということも伺える。)
1708-17年、Saxe-Weimarの公爵邸での宮廷オルガン奏者・室内楽奏者、1714年からワイマール宮廷チャペルのコンサートマスター。
1720年に妻が死去、1721年に歌手Anna Magdalena Wilckeと再婚。1723-50年、ライプツィヒの教会で聖歌隊長、音楽監督。バッハが聖トーマス教会の聖歌隊長に応募したのは、別の応募者がオファーを断った後だった。ライプツィヒでの最初の数年、バッハはほぼ毎週(日曜と祝祭日のため)、新しいカンタータを作曲した。
後妻はライプツィヒ移住後、職をあきらめた。当時、教会の席は男女別だった。ヨハン・セバスチャンは2回の結婚で合計20人の子供を持つ。
聖トーマス教会の音楽監督として最も重要な仕事は、ライプツィヒ市当局との交渉だった。バッハは10ページに亘る文書で、ライプツィヒの教会音楽がどのように組織されているかを述べ、数々の弱点を強調し、予算増額を要求した。(注:撮影不可の特別室に原本があり、ペンマンシップのようにきれいで達筆な文字で書かれている。)
1736年、Royal-Polish and Electoral-Saxonの宮廷作曲家。この地位を得るためにバッハは相当な努力をした。Saxonの都ドレスデンにバッハは数多く訪れ、7回の訪問が記録されている。宮廷オーケストラの楽団員に多くの友人をつくり、Saxon宮廷のために多くの祝賀カンタータを作曲した。
大学での役割分担によって音楽職の給料が低下。バッハは大学上層部と大学への出資者であるSaxon選帝侯に改善を求めた(以下はその際の文書)が、結果は現状維持だった。
約27年間、バッハ家と裕福な商家ボーズ(Bose)一族はブドウの房のように密接な関係の隣人同士だった。ボーズ家は現在のバッハ博物館の所在地にあり、バッハ家は向かいの聖トーマス学校に住んでいた。ボーズ家から数多くの人がバッハの子供たちの教父となった。
1750年、ライプツィヒで死去。
ドイツ統一後の新たな発見
ヨハン・セバスチャンはバッハ家の男性53人もの経歴をとりまとめて家系図を作った。さらには祖先が作曲した曲を集め、誤りを訂正、抜け落ちていた部分を付け加え、ライプツィヒの教会でこれらの作品の演奏も行った。
これらの原稿は"Alt-Bachisches Archiv"として知られていたが、第二次大戦中に失われたと考えられていた。1991年にようやくキーウ(キエフ)のウクライナ人文中央記録文書博物館で再発見され、2001年にドイツに戻ってきた。現在、Staatsbibliothek zu Berlinに保管されている。(←1990年のドイツ統一から1年後。。東側陣営の権力者の指示でウクライナに移されていたとしか考えられない。ドイツの国民的な文化遺産を隠すことで、国威発揚を抑えたかったのか。)
2005年にはワイマールのマンナーマリーナ公爵夫人図書館で、バッハの作曲した未発見のアリア「すべては神とともにあり、神なくして何もなし」(BWV 1127)が見つかった。そのような70年ぶりの発見に世界が注目した。バッハ博物館で進行中の「バッハ探索」という研究プロジェクトの成果である。