第二次大戦後にドイツは連合国によって東西に分断され、東側をソ連が支配した。1945年5月、ドレスデンのバウツナー通り(Bautzner Strasse)沿いの住居ビルをソ連が接収。1953年までソ連によって、戦争犯罪人やナチス組織の高官や協力者、さらにはソ連占領への反対勢力とみなされた人々を再拘留(裁判待ちの人々を拘留すること)する監獄として使われた。
1953~1989年はソ連と東ドイツ秘密警察(Stasi)の共同運営で、Stasiドレスデン事務所および政治犯を再拘留する監獄として使われた。バウツナー通りをはさんで向かい側、すぐ近くにKGBドレスデン事務所があった。
ドイツ統一後の1994年以降、この監獄は「ドレスデン・バウツナー通り記念館」として"Erkenntnis durch Erinnerung e.V."(記憶を通じた知識)という組織がドレスデン市の委託を受けて運営、一般公開している。運営費はザクセン記念法によって設立されたザクセン記念財団の資金、寄付金、入場料(7ユーロ)で賄われている。
入口にはウクライナとドイツの旗が大きく掲げられている。
受付には鼻筋の通ったドイツ系らしい整った顔つきの中年男性がいる。入場料7ユーロを払い、英語とドイツ語の入り混じった会話で、英語のパンフレットと貸し出し式の案内書を手渡される。記念館は上記の通りソ連占領下の政治犯監獄(下の写真の緑色部分)、東ドイツ秘密警察(Stasi)・ソ連共同運営の政治犯監獄(同青色部分)、Stasiドレスデン事務所(同赤色部分)の3つの建物で構成されている。
案内書には全体的な説明およびStasi・ソ連共同監獄の各部屋の解説が書かれている。そこでまずはこの監獄から見学を開始。
Stasi・ソ連共同監獄(1953-1989年)
1989年まで国民は政治的な理由で逮捕され、Stasiは情け容赦ない方法で尋問を行った。ここはザクセン州で唯一の政治犯監獄で、現在も当時の状態のまま残されている。
入所手続き
囚人は到着すると、この部屋で入所手続きを行う。名前、到着日・時刻、特徴、自殺傾向の可能性、心身の状態、特別な学歴などが囚人目録に記録される。
最初の事前調査も入所手続きの一部として、この部屋で行われた。再拘留された囚人は完全に衣服を脱がされ、身体的な特徴や入れ墨があれば、関連書類に記録された。金銭やメモなどを隠していないかチェックするため、全ての囚人に身体検査が行われた。Stasi組織に全てをさらけ出し、自己肯定感を失わせる手段だった。
囚人の衣服や所持品は没収され、釈放されるまで所持品室に保管された。全ての衣類、所持品、文書、貴重品は記録され、逮捕者は完全な記録書を確認して署名した。その後、グレーの下着、フエルトのスリッパ、東ドイツ国民軍の暗い色のスエットスーツを手渡された。
尋問室
囚人たちは平均3カ月間、監獄で再拘留された。裁判が数カ月に亘るケースもあった。拘留の目的は囚人の「罪」を証明し、証拠固めを行うことだった。再拘留期間の終わりに、最終報告書が作成され、囚人は署名を義務づけられた。この報告書は事件の根拠として使われ、全編が起訴手続きに頻繁に採用された。最終報告書が出るまでの間、各囚人は頻繁に、時には毎日尋問を受けた。1970年代~80年代、ほとんどの尋問は日中に行われたが、夜間に行われることもあった。
日常生活
囚人の置かれた最も厳しい状況の一つは、活動の制限であった。監獄で働くことは禁止されていた。考えを書き留めたり、手紙を書くために必要な筆記用具はなかった。要望を出せばリストの中から選んだ書物は与えられたが、囚人の希望を無視した書物であることも度々あった。毎日新聞は配達されたが"Neues Deutschland"[ドイツ社会主義統一党(SED)の機関紙「新しいドイツ」]と"Sächsische Zeitung"(SED機関紙ザクセン版「ザクセン新聞」)だけだった。
のちにLudoなどの室内ゲームを借りることはできたが、こうした「特別なもの」は尋問官の許可が必要だった。囚人は月4回の手紙のやり取りと月1回の家族訪問を許可する規則もできたが、それも尋問官の承認を必要とした。それ以上の活動する機会はなかった。
このため、囚人の多くは毎日新鮮な空気の中に出ることをよい気分転換と考えた。監獄室で喫煙は許可されており、多くの囚人にとって気休めになった。タバコなどの贅沢品は家族が支払い次第、リストの中から注文できた。
看守
囚人は監獄室に入るや、看守から新しい「名前」で呼ばれる。部屋番号と獄中の場所を組み合わせたもので、例えば「囚人58-1」。看守は囚人の本名や逮捕理由を知らなかった。規則によって、看守は囚人と私的な接触を持つことを一切禁止されていた。囚人を適切に扱うが、同情や私語は禁物だった。こうして囚人は孤立した状態に置かれた。囚人が民衆の敵であり、いかなる同情も値しないというイメージを看守に持たせることが、規則の目的だった。
2人部屋
1970年代半ば以降、大多数の監獄は2人部屋でどの部屋も全く同じ仕様だった。ベッド、マットレス、寝具、食器と歯磨き用品を入れる小さな棚、洗面台、食事や読書、ゲームに使う折り畳み式のテーブルが備わっていた。
最初の囚人には暖房とトイレもあった。東ドイツが発足して間もない頃、これは刑務所の一般的な基準ではなかった。だが暖房は監獄室の内部から調節できなかった。1970年半ばまで水洗トイレも同様、看守しか操作できなかった。
窓はガラスのブロックに置き換わり、以前からいた囚人にとって、これは特に気が滅入ることだった。外側の「窓」の上部と内側の「窓」の下部の間を空気が通った。ほかに換気機能はなかったので、室内はかなり蒸し暑くなることがあった。
さらに大きな問題は外の景色を眺められず、ごくわずかしか室内に日光が入らないことだった。このため、一日中照明をつけていた。
囚人同士のコミュニケーション
さまざまな規則や管理の重要な目的は、囚人を孤立状態に置くことだった。室外でほかの囚人と会ったり、お互いに連絡を取ることはできなかった。部屋を出る際には必ず一人で、運動場でほかの囚人に会うことすらなかった。
同じ理由で、館内で大声で話したり、歌ったりすることも禁止だった。囚人の中に知人や家族がいたとしても、その存在はわからないようになっていた。
このような規則や監視が続いたにもかかわらず、囚人たちはお互いに連絡を取り合うことに成功した。最もよく使った手段は「監獄暗号」だった。ドアをノックする回数をアルファベットの各文字に割り当て、例えばAは1回、Zは26回とした。一文が終わる前に対話の相手が内容を理解した場合も、ノックで合図した。
この方法によって、監獄や囚人に関する多くの情報を得られた。ノックが禁止され、警告を受けても、ほぼ全ての囚人が毎日この方法を使った。
トイレの下水管も囚人同士のコミュニケーション手段として使われた。便器のエアトラップ(空気溜まり)から水を抜き、下水管を使って会話ができた。これを阻止するため、ノイズ発生器が開発されて全ての下水管に設置され、電源を入れると静かなノイズ音が発生した。これによって部屋間の会話は不可能となった。
裁縫・アイロン室
有罪判決を受けた男性囚人は主に、監獄のビルで発生する建設、電気、ペンキ塗り作業を行った。館内の台所やエルベ川に面した庭で働く者もいた。再拘留中の囚人には労働は許可されていなかった。
Stasiドレスデン事務所 (1953-1989年)
Stasi地方事務所はドレスデンのほか、東ドイツと東ベルリンに14カ所あった。1989年、地方事務所は30の部署と3500人の職員で構成され、圧政的な秘密警察として活動した。下の写真は管内の地図と講堂。展示はドイツ語のみ。
ソ連占領下の政治犯監獄 (1945-1953年)
この監獄に収容された逮捕者には、ナチスの戦争犯罪人のみならず、無実の人々、ソ連体制やソ連占領軍に批判的な人々もいた。囚人はソ連の強制労働所に連れて行かれることもよくあった。現在、監獄は当時の状態のまま残されている。
地下にあるこの監獄に向かって階段を下りて行くと、カビの臭いと重苦しい雰囲気が立ち込めている。前に見た展示よりも、なお一層深刻な状況とわかる。
獄内の様子を示すアート作品、詩と思われる作品、逮捕・拘留された人々の政治的抵抗、囚人の家族と逮捕後の結末に関する説明の展示もある(ドイツ語のみ)。
「黙祷の部屋」ではソビエト軍事裁判で死刑判決を受け、ソ連で処刑された人々が紹介されている。
ソ連占領時代の監獄を見ると、Stasi・ソ連共同監獄はまるで学生寮と思えるほど、明らかに前者のほうが地獄だとわかる。
考察
私が最初にドレスデンに興味を持ったきっかけは、ロシアのプーチン大統領がKGB勤務時代にドレスデンに駐在したからだった。私は世界の政治家の言動に関心があり、どう見てもプーチン氏のほうがバイデン氏やトランプ氏よりもはるかに頭がよさそうに思える。
2023年6月15日付のLos Angeles Timesに彼のドレスデン時代を詳述した記事がある。
記事はこの記念館にも言及しているが、"a museum and memorial to Stasi victims"としか書かれていない。どう見てもソ連占領下の監獄のほうがStasiとの共同運営よりも深刻な状態であり、黙祷の部屋で紹介されているのはソビエト軍事裁判で死刑判決を受けてソ連で処刑された人々である。それこそが同記念館を"The Bautzner Strasse Memorial in Dresden"と英語表記している大きな理由だろう。にもかかわらず、LA Times記事はそこがすっぽり抜け落ちており、訪れた者としてはかなり違和感がある。
その理由として、米国はソ連とともに連合国としてドイツを占領し、ソ連による人権問題や軍事裁判の結果が、米国の責任問題にも波及する可能性を恐れたからではないだろうか。
いずれにせよ、書物や記事、テレビ番組などは発信者側のバイアスや意図に引きずられて認識を操作される可能性があり、あらためて現地に足を運ぶことの重要性を実感した。
ものすごく重苦しい訪問であり、最後に英語案内書を受付の男性に返却した際に、言葉にできなくても、お互いの表情から伝わる共通した思いを感じた。
それと同時に、これほど苦難に満ちた史実を忠実に残し、占領下の人権侵害に立ち向かった人々を思う場を提供しているドイツという国に対して、あらためて敬意の念を抱いた。
もともとドレスデンは1泊の予定だったが、もっと詳しく気が済むまで探訪してみたくなり5泊6日に延長した。今回の欧州1カ月旅行はコロナ規制や天候、久しぶりの海外旅行で疲れる可能性などを考慮し、現地に着いてから先の予約を入れて行くフレキシブルな形にしていた。
こうして自分の興味を思う存分、追求できるのは一人旅の醍醐味である。