東ドイツ博物館(DDR Museum)はフライブルク出身の民族学者ピーター・ケンゼルマン氏の発案によって、2006年にベルリンでオープンした私設博物館。東西ドイツ分断の歴史、東ドイツの政治体制や社会、人々の生活について、実に事細かに説明している。
膨大な資料をインタラクティブな手法(動画参照)をまじえた展示が人気で、混雑時には待ち時間が長くて十分に見られないというコメントがGoogleレビューにあった。このため開館時刻の午前9時直後に行ったところ、ゆったりと見ることができた。正午まで約3時間かけてじっくり回り、帰る頃には混み合っていたので、早めに行くことをお勧めしたい。
この記事では特に印象に残った詳細についてまとめてみた。(←以下は私の感想。)
全体のトーンは西側の学者らしい視点からユーモアをまじえた紹介ぶりとなっている。まず最初の展示にはこう書かれている。
"In the beginning, there was the absolute surrender of Germany. The Second World War ended with the defeat of its creator. Germany was divided up between the four victorious powers..."(まず初めに、ドイツの完全降伏があった。第二次大戦はその創始者の敗戦で終えた。ドイツは戦勝4カ国に分断された。。)
日本人の発想かもしれないが、日本の博物館、あるいはドイツでも国立の博物館だとしたら、客観性を追求した結果なのか、こうしたやや自虐的なニュアンスにはならないような気がする。
東西ドイツ分断の歴史
1945年5月8日、ドイツは第二次大戦に敗戦。ソ連がナチスの財産を没収、土地改革を行う。ソ連の指示でドイツの共産党と社会民主党が統合してドイツ社会主義統一党(SED)となり、SEDは「社会主義へのドイツの道筋」を発表した。
戦争の恐ろしさを体験した世代はこれを歓迎、SEDの約束を信じた。だが東ドイツが1949年10月7日に発足した時には、真の民主主義の話はなく、モスクワが全ての手綱を握っていた。
第二次大戦後、東西ドイツの国境はソ連支配地域と英米支配地域の間は区切り線しかなく、表向きにはドイツ人の越境は禁止されていたが、連合国の兵士たちはしばしば見て見ぬふりをしていた。
しかしながら、1952年には東ドイツ国境警備隊が国境を完全に閉ざした。同年および1962年に行われた「害獣作戦」では「政治的に信頼できない人物」1万1536人が国境地帯から連れ戻された。こうして国境警備は厳しさを増していき、越境は不可能になっていった。
1952年にドイツ統一の希望がついえると、SEDは再軍備を行い、教会に武器を向け、すでに質素だった人々の生活水準をさらに切り下げた。こうした不満は1953年6月17日のデモに発展したものの、ソ連の戦車に鎮圧された。教養人や若者など多くの人々が西側へ逃げた。
人口流出を防ぐため、SEDは1961年8月13日にベルリンの壁を建てはじめた。早朝、軍が突然に壁と鉄線を建設し、外国人、西ドイツ人(ベルリン在住者を除く)、外交官しか国境を超えられなくなった。
1963年、西ベルリン住民は初めて東ベルリンの家族・親戚への訪問を許可された。壁の警備は厳しくなったが、それでも越えようとする人は多く、その過程で140人が死亡、うち92人は東ドイツ国境警備隊に射殺された。
「逃亡者を撃たない」と言った警備隊員は通常勤務を外され、国境警備隊に残った者は「エリート」として陸海空軍やブランデンブルク門で働いた。逃亡を阻止した兵士には勲章とボーナスが与えられた。
国境地帯には地雷も配置され、少数の死者が出て、数百人の手足が切断された。だが東ドイツは国際的な評判を気にして、ベルリンの壁近辺には地雷を置かなかった。1983年に西ドイツから資金貸付を受ける交換条件として1985年に地雷撤去が始まり、この作業はドイツ統一後にようやく完了した。
西ベルリンには逃亡を助ける業者も存在し、1977年以降にはさらに2万人が西側に逃亡したが、7万5000人超が不法逃亡で逮捕された。あえて刑務所行きになり、その後西ドイツから東ドイツへ支払われた解放金によって逃亡を成功させた者もいた(注:この辺りはStasi Museumで詳しく解説している。)
国は年金生活者には慈悲的な政策を取り、60歳の女性と65歳の男性に移動の権利を与えた。1972年以降、葬式や近親者の重要な誕生日といった「家族の特別な場への旅行」は認められた。だが承認の可否は運任せで、結果に関する説明はなかった。不平を言っても無駄に終わった。
アパートの各棟には住民が記録する「家宅ノート」があり、3日を超える滞在者の名前をこのノートに記録する義務があった。西側の訪問者は到着と同時に記録することになっていた。警察とStasi(秘密警察)は家宅ノートに無制限でアクセスできた。
西ドイツから東の同胞へと物品が送られてきても、Stasiが横領・没収し、この数は年間2500万個に及んだ。
こうした一方、東ドイツの最高権力者・ホーネッカー議長は「社会的な贈り物」政策を導入して一定の成果を得た。(注:Stasi Museumの展示にあったが、給湯器つき低家賃アパートの提供といった政策と思われる。)ただし社会保障費、経済改革、インフラ整備、環境保護は十分ではなく、常に物資は不足していた。
小規模のグループが教会のシェルターに集い、より多くの人々が移動の自由、民主主義、生活水準の向上を求めた。1989年10月7日の東ドイツ建国40周年の祝賀中とそれ以降、全てのダムが堰を切ったような様相を呈した。ライプツィヒなど各地で集団デモが発生、11月9日にベルリンの壁は崩壊した。
密接に結びついていたと思われたものが、ごく短期間のうちに崩れ去った。(←ココ、すごく興味深い。自分の経験を振り返ると、勤め人だった頃には雇用主に従わざるを得なかったものの、いったん離れてしまえば、長年の宮仕えがウソのように自分の考えに正直になる😅)
最初の自由選挙が1990年3月18日に行われ、迅速なドイツ統一を求める明らかな結果となり、同年10月3日に実現した。
東ドイツの政治体制・社会
目的は共産主義、つまり全ての人民が平等という階級なき社会であった。搾取や利己的な利潤追求のない社会。全てが全員に帰属する、可能であれば世界中で、いつの日か。マルクスとエンゲルスいわく社会主義は過渡期に過ぎず、当面の間、東ドイツ国民は体制の不完全さに耐えなければならない。
だが憲法に反して全権力はSED職員にあり、SEDの最高機関である政治局と議長が指導した。東ドイツはプロレタリア独裁ではなく、党職員が支配する階級社会だった。上層部に批判をすれば、どのような内容であれ、職務上の不利益や投獄など厳しく処罰された。
女性が政治局員になることは皆無だった。マルゴット・ホーネッカーは教育大臣になったが、このような高い地位に就いた理由は、党首であり国家元首のエーリッヒ・ホーネッカー議長と結婚していたからだ。
東ドイツの政治家は「階級なき社会」を推進しつつ、同時にエリート層の特権を享受した。約1600万人のうち1万人に過ぎないエリート層はボルボを運転し、東ドイツ製のトラバントではなかった。トラビという愛称でも親しまれたトラバントは注文から納車まで当初は16年、その後も平均13年かかった。
国家エリート層はボルボとシトロエンを好んだ。ホーネッカー議長は東ドイツを近代的で国際的な国家として売り込みたいと考え、中立的な立場のスエーデンから都合のよい時期にいいオファーがあり、ボルボ264TEが国家の車列に加わった。これは350台の限定車両で、大部分が東ドイツへ販売された。
党上層部は一般国民には知られざる贅沢三昧をしていた。熱帯の果物、化粧品、宝飾品、一流の皮製品など。西ドイツの通販会社から高価な電気製品も注文した。
東ドイツは自らを「ドイツ初の平和国家」と呼ぶことを好んだ。平和という言葉は政治的プロパガンダで最も使われた。実際には社会は厳しく軍備されていた。
SEDのほか4つの政党 [キリスト教民主同盟(CDU)、ドイツ民主農民党(DBD)、ドイツ自由民主党(LDPD)、ドイツ国家民主党(NPPD)]があったが、実際にはSEDが手綱を握っていた。
東ドイツの重要決定は全て、政界上層部の人事を含め、モスクワの承認が必要だった。ソ連が全ての手本とされた。東欧で起きた全ての危機的状況において、ソ連にとって東ドイツは最も政治的に安定した信頼できるパートナーだった。
党機関紙『新しいドイツ』(ND)は単なる新聞ではなく、党員全員に購読と精読を求められた。NDはSEDの全公式発表を掲載、延々と続く公務員の演説、レセプション、国賓、表彰式など大量の「官邸ニュース」を伝えた。その他の新聞はさらに退屈だったww。
国民皆保険制度のもと医療費は無料で年金も支払われた。「社会保険カード」には学歴、勤務先、収入も記載され、プライバシーはなかった。(←マイカードの行く末ですか。。?)
国民の生活
職不足はなく、特に製造業の労働者は安定していた。政府補助の休暇制度があり、低賃金労働者は宿泊・食事代の3分の1の負担で済んだ。
国の大規模な補助金政策によって、生活に必要な家賃、水道光熱費、基本的な食費などは全て超低価格で賄えた。
しかしながら、テレビやコンピューターといった贅沢品は、ほぼ入手不可能だった。テレビは西ポメラニアと東ザクセンを除き、西ドイツの番組も受信可能だった。電話の普及率は1971年は8%、1989年は16%。
常に物資不足だったので、国民は自分で家のことは何でもやるようになり、日曜大工を器用にこなした。物品の売買は友達や家族間で非合法に行われた。
綿花は全て輸入に頼っていた。洋服を持ち過ぎていた西ドイツ人は要らない衣服をまとめて東ドイツの家族・親戚に送った。東側が喜んだだけでなく、西側ではこうした行為は非課税だった。
海外旅行は社会主義国へのみ可能だった。子供たちはソ連や共産国にペンパルを持った。
裸での海水浴は特に魅力的だった。国はヌードの奨励はしなかったものの、禁止もしなかった。この小さな自由を認めた理由は、本当の自由が制限されていたからだ。(←この辺りは、どうなのか。。男性は女性の体を見て喜ぶが、女性は公衆の面前で裸になるのはイヤという人が大半ではないか。女性は特定の相手以外の男性の体を見たところで喜ぶどころか、気持ち悪さや不安を感じる。所詮、男性優位社会で女性を脱がせて男性を喜ばせ、堅苦しい独裁国家で男性にガス抜きをさせただけなのでは。。? ただドイツやフィンランドでは混浴サウナも一般的だと言うので、違った感覚があるのかもしれない。)
東ドイツの寝室は総じて私的な場所として認められ、西側と比べて東ドイツ人は初体験の年齢が低く、より若くして結婚し、より多くの子供を持ち、不倫や離婚をする確率も高かった。
1960年代にピルが導入され、コンドームもあった。ただしCDUは1972年、妊娠3カ月以内の中絶を認める法案に議会で反対した。東ドイツ議会での反対票はこの件しかなかった。
東ドイツ憲法は両性の平等をうたっていたが、職場における女性の地位は低かった。女性は外で働くのみならず、家事・育児も女性の仕事だった。1970年、家事の80%を女性が担っていた。1989年、女性の賃金は男性より15~17%低かった。
3月8日「国際女性デー」だけは特別で、職場では花束で歓迎され、所属長が両性の平等を唱える演説を行う。ついで特別貢献のあった女性が表彰され、賞金を受け取る。家では夫がコーヒーとケーキをふるまい、皿洗いすらやる。男たちは年1回しか、こうしたことをやらずにすむと胸をなでおろす。女性たちは来年の国際女性デーを心待ちにする。(←これって日本ですか?😅)
組織化したスポーツは楽しむのが目的ではなく、団結して指示された通りに行動する訓練だった。
ライプツィヒは国際的な商業フェアの開催地として知られ、いつでも何か特別なものがあった。それと同時に、労働者階級の界隈と芸術家の地区は独立した思考という評判があった。東ドイツ時代の末期、ライプツィヒでは毎週月曜にニコライ教会の前で集会が行われ、集まる人々はどんどん増えていった。1989年10月9日、ライプツィヒ旧市街を囲む通りで行われた月曜デモによって、平和的な革命が急展開をとげた。
ドレスデンは旧ザクセン王国の首都であり、芸術と美しい風景で知られる。伝統的にハイテク製造業の中心でもあった。
シーサー(下着・部屋着メーカー)とペプシは東ドイツで安い労働力を利用して生産を行い、こうした製品はエリート層向けの店や輸入品店で高価で販売された。結果として労働者層には何のメリットもなかった。
考察
東ドイツでは失業の心配はなく、最低限の生活は保障されていた。また全人口1600万人のうちエリート層は1万人に過ぎず、残りの大多数は同じような住宅に住み、同じように質素な生活をしていた。
資本主義国では当たり前となっている、生まれながらの経済格差は少なかったと思われる。このため他人と自分を比べて嫉妬する負のエネルギーは湧きづらく、やろうと思えば、そのエネルギーをもっとポジティブな方向に向けることも可能とも思われる。
私自身、庶民の出身で10歳まで公営住宅で育ち、みな同じ生活レベルだったので、他人を羨ましいと思う感覚はあまりなかった。思えばそのおかげなのか、小学5年の時に勉強の面白さにはまり、私立中学受験など無縁の世界だったが、そんなことは全く関係なく、純粋に勉強が楽しくて帰宅後に毎日3~4時間自習していた。
手順は①ノートや教科書をもとにその日に授業で習ったことをレビューする ②その内容をもとに自分でテストを作る ③テストを解く ④自分で採点して正しいか確認する このプロセスの中で特に②が重要だった。なぜなら出題者の気持ちを理解する必要があり、それができれば内容を完全にマスターしたと言える、と思ったから。こうすれば勉強が楽しくなると思って自分で編み出した方法なのだが、我ながら天才かもしれない😜
学校の友達も面白くて頭のいい子が多く、お金持ちでないから劣っていると思ったことは全くない。むしろ、お受験で子供の頃から塾通いで受け身な学習態度が身に着いている人のほうが面白味がなく、マスコミや権威筋を盲信する情報弱者という観すらある。
ベルリンでは東ドイツ時代を懐かしむかのように、大通りをトラバントの車列がクラクションを鳴らし、排気ガスの臭いを漂わせて走り去る光景を何度も見た。さらにはベルリンのレストランやドレスデンの土産物店では、トラバントをオブジェのように置いているところもあった。
しかしながら、勤勉でも怠慢でも差がつかない社会というのは、努力や創意工夫の動機づけになりにくい。マルクスやエンゲルスの目指す「全ての人が平等な社会」とは、実は非現実的な悪平等社会とも言える。さらには共産主義に至る前段階が「プロレタリア独裁」というのも解せない。「プロレタリア民主主義」ならわかるのだが。
各人の能力、努力、さらには資本主義国では特に生まれた家庭の経済力に格差があるなか、より健全な社会を実現するには、どうすればよいのか。私が思うに、親の財力に関係なく、本人が希望して能力があれば、誰でも国立大学まで進学できるようにする。そうすれば親ガチャなどと言わず、目標に向かって前進する意欲も湧いてくるだろう。
共産主義なり社会主義のよい点としては、親の職業や経済力に関係なく、国家が才能のある子供を見抜いて育てることができる点だ。プルシェンコ氏はソ連時代に発掘された最後の世代のスケート選手だが、父親は大工だったという。日本ではそれなりの経済力や家柄がなければ難しい進路として、こうしたスポーツ選手、クラシック音楽の演奏家、歌舞伎俳優などがある。
できる限り個人の才能を伸ばす制度とともに、どのような能力を持って生まれてきても、人間的な生活を営めるようなセーフティーネットがあればよいのではないか。
経済活性化には自由な発想が不可欠なので、独裁主義や秘密警察による個人管理はあってはならない。
最後にかなり興味深い点として、社会主義国は公務員の世界に酷似している😅
上記で概括したSED党機関紙は、かつて私が勤めていた米政府機関の月刊誌を彷彿とさせる。職場にマルクス、エンゲルス、レーニンら共産主義指導者の顔写真が掲げられ、指導者崇拝のスタンスも、玄関に大統領や長官の顔写真が掲げられ、本部からの命令に忠実な上意下達の組織文化によく似ている。
さらには同僚同士の監視を奨励する研修、庁舎や宿舎の入館者管理システム、プライバシーが全くない電子メール、組織に忠実な職員への表彰制度など。資本主義の権化といえる米国において、その官庁はまるで社会主義国の諸制度をまねしているのではないかと思えるほど類似点が多い。
お役所という点では、多かれ少なかれ、どの国も似ているのかもしれない。そういった意味で、社会主義に魅かれる人は公務員に向いているような気がする。