2024年2月19日月曜日

FIRE中年女はどう生きるか

  日本人女性の平均寿命まで30年程度。人生100年時代でそれ以上かもしれないし、病気や事故でそれ以下かもしれない。まあざっくり30年と仮定して、今後どう生きるかを考えてみたい。

 コロナ以降世界は一変、おかしな方向に向かっている。

 昨年5月にインフルと同じ扱いとなり、旅行関連の規制も取り払われた。ただ今年秋にはレプリコンという、RNAが体内で自己増殖するワクチン接種が世界で初めて日本で開始される。原口一博衆院議員が分子生物学者・荒川央(ひろし)博士の説明をわかりやすく解説している。

 この動画を見ると、こんなワクチンを打つ人は本当にいるのかと思う。ファイザーやモデルナのワクチンも感染予防に役立つのか不明であり、厚生労働省は関連データの公開をやめたほどだ。明らかに有効であれば公開すると思うのだが、公開するとやばいことになるのだろう。

 その一方で国立感染症研究所によれば、ワクチン接種を開始した2021年5月以降、超過死亡数(高齢化など人口動態を考慮した予想を超過した死亡数)は約20万人。東京大空襲や広島の原爆による死亡数を上回る。ちなみにコロナ騒ぎが勃発した2020年の超過死亡数は1万人に満たない。

 コロナが重症化するのは高齢者や基礎疾患のある患者で、私の年代の女性では重症化する確率はかなり低かった。それに加えて私はテレワークで一人暮らし、他人と接触する機会はほぼ皆無で感染リスクも極めて低い。

 mRNAワクチンの仕組みを調べると、体内で残骸となったmRNAはどこへ行くのかなど、解せない点があった。完全な治験を終えた通常の新薬でも、実際の治療で新たに薬害が出てくるケースは枚挙にいとまがない。コロナワクチンはまだ治験段階で安全性も確立されていない。

 以上の観点から、私はワクチン接種のリスクはメリットの可能性を上回ると判断し、これまで一度も接種していない。だが全国では8割近くの人が1度は接種し、3回以上は7割。ただ都道府県で差はあり、3回以上の接種者の割合は沖縄県で半数、大阪府で6割と関西以西で低めとなっている。

 名古屋のテレビ局やXのツイート、イギリス人学者のYouTubeチャンネルを見ると、接種後の死亡やがん、心疾患など血管系の病気、流産や死産、原因不明の症状などが数多く報告されている。シェディングと言って、ワクチン接種者と接するだけで後遺症が移る例も数え切れないほど出てくる。にもかかわらず、NHKや民放大手、新聞では完全にスルーしている。

 話はややそれるが、2022年に安倍元首相が暗殺された事件では、当日の5日後に現場検証を行い、また手術で弾丸が見つからなかったなど、あまりにも不可解な展開となっている。かなり時間が経ってから週刊誌がこの点を指摘していたが、大手メディアは全く触れていない。

 こうした一連のあやしさの背後にはDSという勢力がいる。そうした論調を馬渕睦夫元在ウクライナ日本大使及川幸久氏、欧州事情のYouTuberらが発信、先日のプーチン大統領のインタビューでも浮かび上がった。

 こうした背景のもと、FIRE中年女はどう生きるべきか。

 第三次世界大戦状態であることは確かだと思う。過去の戦争中に起きた出来事を調べてみると、現状を理解するうえで役に立つ。

 例えば、ナチスドイツはユダヤ人だけでなく、障害者や病人を殺すプロジェクトを実施していた。この10年ほどで明らかになった詳細をみると、コロナワクチンの展開と似ている。世の中の支配者は過去の歴史から使える点をまねしているのではないかと思うほどだ。

 このような歴史を学ぶことで、現状と今後の対策を考える。

 ネガティブな状況ばかりではない。歴史的な日本株高と企業業績の向上は、米中対立を背景とした日米半導体協定の米側の(いい意味での)手のひら返しという背景がある。このあたりは武者陵司氏の解説が面白く説得力がある。

 私は庶民の家庭で育ち、お金の重要性を実感している。ほとんどの問題は資金不足で生じる。ぶっちゃけ世の中、お金さえあればどうにかなる。

 ロシア上空を飛べずさらに遠くなった欧州でも、ビジネスクラスで行けば体力的な負担をかなり軽減できる。庭の雑草で困っていたら、防草シートとレンガを敷けばいい。YouTubeでプレミアム会員になれば広告なしで動画を視聴でき、時間を節約できてイライラすることもない。

 抽象的な観点で言えば、生涯必要な生活費を稼ぎ終えてFIRE生活に入ったいま、その安心感と自信から、他人や宗教に依存して自分を失うこともない。だるいとか疲れたと思えばすぐに休養でき、栄養のある食事を摂り定期的に運動を行い、健康的な生活を送っている。

 結論として、投資でお金を稼いで旅行に行き、現地から歴史や最新事情を学んで発信する。YouTubeやXで日々いろいろな方から知識を得ているので、その恩返しとしてこうした活動をしていき、世の中から戦争をなくしたい。 

2024年2月7日水曜日

ドレスデン・バウツナー通り記念館 ソ連占領と東ドイツ時代の政治犯監獄

 第二次大戦後にドイツは連合国によって東西に分断され、東側をソ連が支配した。1945年5月、ドレスデンのバウツナー通り(Bautzner Strasse)沿いの住居ビルをソ連が接収。1953年までソ連によって、戦争犯罪人やナチス組織の高官や協力者、さらにはソ連占領への反対勢力とみなされた人々を再拘留(裁判待ちの人々を拘留すること)する監獄として使われた。

 1953~1989年はソ連と東ドイツ秘密警察(Stasi)の共同運営で、Stasiドレスデン事務所および政治犯を再拘留する監獄として使われた。バウツナー通りをはさんで向かい側、すぐ近くにKGBドレスデン事務所があった。

 ドイツ統一後の1994年以降、この監獄は「ドレスデン・バウツナー通り記念館」として"Erkenntnis durch Erinnerung e.V."(記憶を通じた知識)という組織がドレスデン市の委託を受けて運営、一般公開している。運営費はザクセン記念法によって設立されたザクセン記念財団の資金、寄付金、入場料(7ユーロ)で賄われている。

 入口にはウクライナとドイツの旗が大きく掲げられている。


 受付には鼻筋の通ったドイツ系らしい整った顔つきの中年男性がいる。入場料7ユーロを払い、英語とドイツ語の入り混じった会話で、英語のパンフレットと貸し出し式の案内書を手渡される。記念館は上記の通りソ連占領下の政治犯監獄(下の写真の緑色部分)、東ドイツ秘密警察(Stasi)・ソ連共同運営の政治犯監獄(同青色部分)、Stasiドレスデン事務所(同赤色部分)の3つの建物で構成されている。


 案内書には全体的な説明およびStasi・ソ連共同監獄の各部屋の解説が書かれている。そこでまずはこの監獄から見学を開始。


Stasi・ソ連共同監獄(1953-1989年)

 1989年まで国民は政治的な理由で逮捕され、Stasiは情け容赦ない方法で尋問を行った。ここはザクセン州で唯一の政治犯監獄で、現在も当時の状態のまま残されている。

入所手続き

 囚人は到着すると、この部屋で入所手続きを行う。名前、到着日・時刻、特徴、自殺傾向の可能性、心身の状態、特別な学歴などが囚人目録に記録される。


 最初の事前調査も入所手続きの一部として、この部屋で行われた。再拘留された囚人は完全に衣服を脱がされ、身体的な特徴や入れ墨があれば、関連書類に記録された。金銭やメモなどを隠していないかチェックするため、全ての囚人に身体検査が行われた。Stasi組織に全てをさらけ出し、自己肯定感を失わせる手段だった。

 囚人の衣服や所持品は没収され、釈放されるまで所持品室に保管された。全ての衣類、所持品、文書、貴重品は記録され、逮捕者は完全な記録書を確認して署名した。その後、グレーの下着、フエルトのスリッパ、東ドイツ国民軍の暗い色のスエットスーツを手渡された。

尋問室

 囚人たちは平均3カ月間、監獄で再拘留された。裁判が数カ月に亘るケースもあった。拘留の目的は囚人の「罪」を証明し、証拠固めを行うことだった。再拘留期間の終わりに、最終報告書が作成され、囚人は署名を義務づけられた。この報告書は事件の根拠として使われ、全編が起訴手続きに頻繁に採用された。最終報告書が出るまでの間、各囚人は頻繁に、時には毎日尋問を受けた。1970年代~80年代、ほとんどの尋問は日中に行われたが、夜間に行われることもあった。


日常生活

 朝6時起床。7時、ドアの床窓から朝食を配膳される。昼は温かい食事、夜は冷たい食事。食事は1階の台所で用意され、エレベーターで各階に運ばれる。夜9時消灯。

 囚人の置かれた最も厳しい状況の一つは、活動の制限であった。監獄で働くことは禁止されていた。考えを書き留めたり、手紙を書くために必要な筆記用具はなかった。要望を出せばリストの中から選んだ書物は与えられたが、囚人の希望を無視した書物であることも度々あった。毎日新聞は配達されたが"Neues Deutschland"[ドイツ社会主義統一党(SED)の機関紙「新しいドイツ」]と"Sächsische Zeitung"(SED機関紙ザクセン版「ザクセン新聞」)だけだった。

 のちにLudoなどの室内ゲームを借りることはできたが、こうした「特別なもの」は尋問官の許可が必要だった。囚人は月4回の手紙のやり取りと月1回の家族訪問を許可する規則もできたが、それも尋問官の承認を必要とした。それ以上の活動する機会はなかった。

 このため、囚人の多くは毎日新鮮な空気の中に出ることをよい気分転換と考えた。監獄室で喫煙は許可されており、多くの囚人にとって気休めになった。タバコなどの贅沢品は家族が支払い次第、リストの中から注文できた。


看守

 囚人は監獄室に入るや、看守から新しい「名前」で呼ばれる。部屋番号と獄中の場所を組み合わせたもので、例えば「囚人58-1」。看守は囚人の本名や逮捕理由を知らなかった。規則によって、看守は囚人と私的な接触を持つことを一切禁止されていた。囚人を適切に扱うが、同情や私語は禁物だった。こうして囚人は孤立した状態に置かれた。囚人が民衆の敵であり、いかなる同情も値しないというイメージを看守に持たせることが、規則の目的だった。


2人部屋

 1970年代半ば以降、大多数の監獄は2人部屋でどの部屋も全く同じ仕様だった。ベッド、マットレス、寝具、食器と歯磨き用品を入れる小さな棚、洗面台、食事や読書、ゲームに使う折り畳み式のテーブルが備わっていた。


 最初の囚人には暖房とトイレもあった。東ドイツが発足して間もない頃、これは刑務所の一般的な基準ではなかった。だが暖房は監獄室の内部から調節できなかった。1970年半ばまで水洗トイレも同様、看守しか操作できなかった。


 窓はガラスのブロックに置き換わり、以前からいた囚人にとって、これは特に気が滅入ることだった。外側の「窓」の上部と内側の「窓」の下部の間を空気が通った。ほかに換気機能はなかったので、室内はかなり蒸し暑くなることがあった。

 さらに大きな問題は外の景色を眺められず、ごくわずかしか室内に日光が入らないことだった。このため、一日中照明をつけていた。

囚人同士のコミュニケーション

 さまざまな規則や管理の重要な目的は、囚人を孤立状態に置くことだった。室外でほかの囚人と会ったり、お互いに連絡を取ることはできなかった。部屋を出る際には必ず一人で、運動場でほかの囚人に会うことすらなかった。

 同じ理由で、館内で大声で話したり、歌ったりすることも禁止だった。囚人の中に知人や家族がいたとしても、その存在はわからないようになっていた。

 このような規則や監視が続いたにもかかわらず、囚人たちはお互いに連絡を取り合うことに成功した。最もよく使った手段は「監獄暗号」だった。ドアをノックする回数をアルファベットの各文字に割り当て、例えばAは1回、Zは26回とした。一文が終わる前に対話の相手が内容を理解した場合も、ノックで合図した。

 この方法によって、監獄や囚人に関する多くの情報を得られた。ノックが禁止され、警告を受けても、ほぼ全ての囚人が毎日この方法を使った。


 トイレの下水管も囚人同士のコミュニケーション手段として使われた。便器のエアトラップ(空気溜まり)から水を抜き、下水管を使って会話ができた。これを阻止するため、ノイズ発生器が開発されて全ての下水管に設置され、電源を入れると静かなノイズ音が発生した。これによって部屋間の会話は不可能となった。


裁縫・アイロン室

 この部屋では、労働部隊の女性が寝具や囚人服の縫製、アイロンがけを指示された。この女性たちは既に有罪判決を受けており、別の囚人とは完全に離されていた。


 有罪判決を受けた男性囚人は主に、監獄のビルで発生する建設、電気、ペンキ塗り作業を行った。館内の台所やエルベ川に面した庭で働く者もいた。再拘留中の囚人には労働は許可されていなかった。

Stasiドレスデン事務所 (1953-1989年)

 Stasi地方事務所はドレスデンのほか、東ドイツと東ベルリンに14カ所あった。1989年、地方事務所は30の部署と3500人の職員で構成され、圧政的な秘密警察として活動した。下の写真は管内の地図と講堂。展示はドイツ語のみ。


ソ連占領下の政治犯監獄 (1945-1953年)

 この監獄に収容された逮捕者には、ナチスの戦争犯罪人のみならず、無実の人々、ソ連体制やソ連占領軍に批判的な人々もいた。囚人はソ連の強制労働所に連れて行かれることもよくあった。現在、監獄は当時の状態のまま残されている。

 地下にあるこの監獄に向かって階段を下りて行くと、カビの臭いと重苦しい雰囲気が立ち込めている。前に見た展示よりも、なお一層深刻な状況とわかる。


 獄内の様子を示すアート作品、詩と思われる作品、逮捕・拘留された人々の政治的抵抗、囚人の家族と逮捕後の結末に関する説明の展示もある(ドイツ語のみ)。


「黙祷の部屋」ではソビエト軍事裁判で死刑判決を受け、ソ連で処刑された人々が紹介されている。


 ソ連占領時代の監獄を見ると、Stasi・ソ連共同監獄はまるで学生寮と思えるほど、明らかに前者のほうが地獄だとわかる。

考察

 私が最初にドレスデンに興味を持ったきっかけは、ロシアのプーチン大統領がKGB勤務時代にドレスデンに駐在したからだった。私は世界の政治家の言動に関心があり、どう見てもプーチン氏のほうがバイデン氏やトランプ氏よりもはるかに頭がよさそうに思える。

 2023年6月15日付のLos Angeles Timesに彼のドレスデン時代を詳述した記事がある。


 記事はこの記念館にも言及しているが、"a museum and memorial to Stasi victims"としか書かれていない。どう見てもソ連占領下の監獄のほうがStasiとの共同運営よりも深刻な状態であり、黙祷の部屋で紹介されているのはソビエト軍事裁判で死刑判決を受けてソ連で処刑された人々である。それこそが同記念館を"The Bautzner Strasse Memorial in Dresden"と英語表記している大きな理由だろう。にもかかわらず、LA Times記事はそこがすっぽり抜け落ちており、訪れた者としてはかなり違和感がある。


 その理由として、米国はソ連とともに連合国としてドイツを占領し、ソ連による人権問題や軍事裁判の結果が、米国の責任問題にも波及する可能性を恐れたからではないだろうか。

 いずれにせよ、書物や記事、テレビ番組などは発信者側のバイアスや意図に引きずられて認識を操作される可能性があり、あらためて現地に足を運ぶことの重要性を実感した。

 ものすごく重苦しい訪問であり、最後に英語案内書を受付の男性に返却した際に、言葉にできなくても、お互いの表情から伝わる共通した思いを感じた。

 それと同時に、これほど苦難に満ちた史実を忠実に残し、占領下の人権侵害に立ち向かった人々を思う場を提供しているドイツという国に対して、あらためて敬意の念を抱いた。

 もともとドレスデンは1泊の予定だったが、もっと詳しく気が済むまで探訪してみたくなり5泊6日に延長した。今回の欧州1カ月旅行はコロナ規制や天候、久しぶりの海外旅行で疲れる可能性などを考慮し、現地に着いてから先の予約を入れて行くフレキシブルな形にしていた。

 こうして自分の興味を思う存分、追求できるのは一人旅の醍醐味である。

2024年2月2日金曜日

ライプツィヒ・バッハ博物館 訪問記

  ベルリンから列車で1時間半。ライプツィヒは旧東ドイツの都市だが、今ではすっかり西側の雰囲気が漂い、駅周辺の観光名所はきれいに整っている。バッハが音楽監督を務めた教会があり、ライプツィヒはバッハの街としても知られる。

 バッハ博物館の入場料は10ユーロだが、私が訪れた日は第一火曜で無料だった。受付の女性はなんと新潟に住んでいたそうで日本語が通じて驚いた。日本語のオーディオガイドも無料で貸してくれて、3時間も詳しく見て回ることができた。私が興味を引かれた内容を紹介しよう(←以下は感想)。

 ヨハン・セバスチャン・バッハは「大バッハ」とも呼ばれ、息子たち「小バッハ」と区別される。バッハ家は音楽一族で作曲家や楽器職人が多く、少数の医者もいた。

音楽一家に生まれ、子供時代に両親が他界

 ヨハン・セバスチャンは毛皮商人・町議の娘である母、Eisenach(ライプツィヒの南西160㎞)の宮廷音楽家である父のもと、1685年3月21日に生まれた。9歳で母を亡くし、10歳で父も死去、長兄の家に入る。(←バッハの音楽は強烈な悲しみ静かな癒しを感じさせる。幼少期のこうした体験が元になっているのではないだろうか。)

 1702年、Sangerhausenの聖ヤコブ教会のオルガン奏者の空席に応募。オーディションでバッハは満場一致で選ばれるも、公爵の介入で別の応募者が採用された。(←17歳の若さでこのような理不尽な目に遭った経験からなのか、バッハはその後の人生で事あるごとに、音楽界の状況改善のため上層部への申し立てを行っている。)

 1702-03年、Saxe-Weimarの宮廷で下男・音楽奏者として働く。1703-07年、Arnstadtのニューチャーチのオルガン奏者。1707-08年、Mühlhausenの聖ブラジウス教会のオルガン奏者。1707年、マリア・バーバラ・バッハ(ヨハン・セバスチャンのはとこ)と結婚。(←バッハと言えばパイプオルガンの曲が印象的だが、まずはオルガン奏者としてキャリアを積み、オルガン奏者=一家の主として安定した職ということも伺える。)

 1708-17年、Saxe-Weimarの公爵邸での宮廷オルガン奏者・室内楽奏者、1714年からワイマール宮廷チャペルのコンサートマスター。

 1720年に妻が死去、1721年に歌手Anna Magdalena Wilckeと再婚。1723-50年、ライプツィヒの教会で聖歌隊長、音楽監督。バッハが聖トーマス教会の聖歌隊長に応募したのは、別の応募者がオファーを断った後だった。ライプツィヒでの最初の数年、バッハはほぼ毎週(日曜と祝祭日のため)、新しいカンタータを作曲した。

 後妻はライプツィヒ移住後、職をあきらめた。当時、教会の席は男女別だった。ヨハン・セバスチャンは2回の結婚で合計20人の子供を持つ。

 聖トーマス教会の音楽監督として最も重要な仕事は、ライプツィヒ市当局との交渉だった。バッハは10ページに亘る文書で、ライプツィヒの教会音楽がどのように組織されているかを述べ、数々の弱点を強調し、予算増額を要求した。(注:撮影不可の特別室に原本があり、ペンマンシップのようにきれいで達筆な文字で書かれている。) 

 1736年、Royal-Polish and Electoral-Saxonの宮廷作曲家。この地位を得るためにバッハは相当な努力をした。Saxonの都ドレスデンにバッハは数多く訪れ、7回の訪問が記録されている。宮廷オーケストラの楽団員に多くの友人をつくり、Saxon宮廷のために多くの祝賀カンタータを作曲した。

 大学での役割分担によって音楽職の給料が低下。バッハは大学上層部と大学への出資者であるSaxon選帝侯に改善を求めた(以下はその際の文書)が、結果は現状維持だった。

 約27年間、バッハ家と裕福な商家ボーズ(Bose)一族はブドウの房のように密接な関係の隣人同士だった。ボーズ家は現在のバッハ博物館の所在地にあり、バッハ家は向かいの聖トーマス学校に住んでいた。ボーズ家から数多くの人がバッハの子供たちの教父となった。

 1750年、ライプツィヒで死去。

ドイツ統一後の新たな発見

 ヨハン・セバスチャンはバッハ家の男性53人もの経歴をとりまとめて家系図を作った。さらには祖先が作曲した曲を集め、誤りを訂正、抜け落ちていた部分を付け加え、ライプツィヒの教会でこれらの作品の演奏も行った。

  これらの原稿は"Alt-Bachisches Archiv"として知られていたが、第二次大戦中に失われたと考えられていた。1991年にようやくキーウ(キエフ)のウクライナ人文中央記録文書博物館で再発見され、2001年にドイツに戻ってきた。現在、Staatsbibliothek zu Berlinに保管されている。(←1990年のドイツ統一から1年後。。東側陣営の権力者の指示でウクライナに移されていたとしか考えられない。ドイツの国民的な文化遺産を隠すことで、国威発揚を抑えたかったのか。)

 2005年にはワイマールのマンナーマリーナ公爵夫人図書館で、バッハの作曲した未発見のアリア「すべては神とともにあり、神なくして何もなし」(BWV 1127)が見つかった。そのような70年ぶりの発見に世界が注目した。バッハ博物館で進行中の「バッハ探索」という研究プロジェクトの成果である。